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道民教ブログ

道民教のウェブページに付属する教育関係の方々、主に教員の方々の言葉を直接伝えるブログです。ちなみに管理人の羽二重餅は、教員ではありません!

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お久しぶりのブログ更新。
第45回北海道高生研大会 のご案内です。

と き:2014年1月12日(日)17:30~13日(月) 11:30
ところ:北海道高等学校教職員センター4F大会議室

詳しい事や申し込みなどに関しては、PDFファイルを掲載していますのでそちらからご確認お願いします。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
第45回北海道高生研大会チラシのPDFファイル
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑



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こんばんは~、羽二重餅です。
帰宅直後からこの記事を書き始めて、気が付けば二時間以上。
という眠たい! もう午前二時! 明日は寝坊してもいいですか……。

札幌遠友塾自主夜間中学、という、夜間中学で、英語の授業のサポートをやっています。
今日、その授業中に、「I am shy」というのが出たときに、「はい!私もシャイです!」と言ったら、あちこちから「うっそだー!」的な反応をいただきました。
嘘じゃないですよ~。
ちょっとだけシャイな部分を社交的にみせかける小賢しさを身に付けただけですって。
内気でシャイで怖がりでどーしょーもないんですから信じてくださいよ(´・ω・`)
小賢しさなので、ちょっとどつくと馬脚を現します。

今日、というか日付的には昨日?
水曜日の遠友塾が9時過ぎに終わってから、そこの別のクラスでスタッフをやっている方とちょっと一杯ひっかけながら、どんな場所が欲しいかを話し合っていました。

あーだりこーだり話し合った結果出てきたのは
全年齢交流型フリースクールっぽい何か、でした。

私は不登校時代、フリースクールに通えませんでした。
とあるフリースクールの理事長さんに、フリースクールに通えなかったという話になった時に、なぜフリースクールダメだったの?と聞かれました。
私は、人数が多かったから、と答えたような記憶があります。
その理事長さんは、20人くらいだから少ない、と言われたような気がしますが、20人は多いです。
採算の面もあるので減らせないんでしょうが、20人でも十分多い。

更にいうと、同年代の、ある特定の条件を持った子供の集まり、という気持ち悪さがありました。
それは保健室登校をしている子どもたちにも、当時子どもであった私が感じたことです。
この場合の特定の条件というのは、何かしら理由があって学校に通えないでいる子ども、といったあたりでしょうか。
だからでしょうか、私は保健室登校もできなかったんですが。

スタッフ側の年齢は多種多様であるでしょうけど、学習者側としては、どうしてもそういう場所にいる人々の年齢は限られますよね。
今は不登校からひきこもりへの流れも高齢化してるから~、とか言ったところで、やっぱりまだ若いと言われる方々でしょうし。
そして私は、不登校前の学校経験から、同世代の同性が、とっても苦手です。

そこで、嗚呼欲しいなぁ、と思ったのが全年齢交流型フリースクールっぽい何か、でした。

地域の学童保育と老人クラブを混ぜ込んで不登校の人々も混じってしまうような何かみたいな。
いろいろな世代といろいろな経験がそこにあれば、今いきなり通えなくても、通いたい時通えるかな、と。
フリースクールでも高校でも中学ででも、たとえば似たような年齢の集団の中に一人、異年齢の自分が入るのはつらいです。
シャイで内気でいろんなものに怯えて、でもやっと出てきたときには、受け入れ先の集団と大幅に年齢が違うと、特に相手先の年齢が低い時につらいなぁ、と思うのです。
でも、最初っからいろんな年齢の人がいれば怖さは減ります。
何年か不登校からのひきこもりで年齢が変わってしまっても、大丈夫。
いつ、どの年齢の時でも、行けると思った時に行ける形。

ある程度お年を召した方が、自分が学びたいがゆえに高校や大学という異年齢の集団に入っていくのとは、気持ちの条件が違います。
年齢幅が狭い場所っていうのは、つらいなぁ。

私が中学校の卒業時に、留年を進められた時に断ったのも、たった一歳、異年齢の状態で通える気がしなかったからでもありました。
しかも、私には妹がいるので、同じ学校の中で妹はあの不登校の羽二重餅の妹、と指差されていました。
だから、妹の同級生は不登校の姉が居るのを知っているのです。
不登校が故の留年です、と知っている人がいっぱいいる。
そんな中で留年してみたところで、一日だって通える気はしませんでした。
まだ九月のころに書いた、ひとつ前の記事「狂乱する」で書いたこと。
あっちはなんだか最後のほうがぐちゃぐちゃになっていましたが、私が病的に疑ってしまって身動きができなくなるほどの人の言葉の裏側って何?
って事をもうちょっと。


人の言葉の裏側を疑ってしまうというのは、何かというと、『すべてが社交辞令に見える病』とでも申しましょうか。
前の記事みたいに言葉もどかしく伝えていたあれを簡単に言うとそういう事かな、と。

あなたの何かがすごいから。
あなたの何かが求められているから。
だから何か(この場合の何かは具体的に)これこれこういう風にやってみない?

たとえば上記のようなことがあると、それこそ前の記事のタイトル『狂乱する』のように、ほんとーに!どうしていいのかわからなくなります。
社交辞令じゃないのか、本気で受け止めていいのか、ということを、恐らく多くの人が思う以上に思ってしまう。
夜道で一人泣き出しちゃうくらいに。

たとえば、あいまいな誘い。
これが私はすっごく苦手です。

たとえば夏の暑い日に。
暑いですね~、ビール飲みたいですね!
土曜日は天気がいいよ。最高気温28度予定。
きっとビールがうまい!

↑のようにメールが来たら。
皆さんどう返事するでしょうか。

すごく、すごく飲みに行こうぜ! って誘ってますよね。
誘ってますよね?

まず土曜日の都合考えて、その可否次第で
「飲みに行こう~」というか「ごめんなさい、その日はダメなんです~><」
というかになるかと思うのですが……。

私は
「暑いですね~! あ、でも来週はちょっと気温差がるって天気予報でやってましたよ~^^」
って返信すると思います。

飲みに行こう、とちょっとあいまいさが残りつつもどう見てもあからさまに誘われていても、それに応えることが苦手なんです。

これも、誘ってるように見える社交辞令じゃないのか?
と、思ってしまっている。
そこそこ付き合いのある人だと、この人はそんなメンドクサイ社交辞令を言う人じゃない、と分かっていても、です。

更にこの場合、人の言葉を額面通りに受け取ること、を自分に課すと、額面通りならお誘いじゃないってことになるんですよね!

(ノ∀`)アチャー
人の言葉の裏側を、どうしても探ってしまって外に出れなくなった私が外で活動していくために行ったことは、できうる限り人の言葉を額面通りに受け取ること、でした。

自分でしゃべっててわかるんですけど、言葉にはべつにそんなに裏側なんてないんです。
たまには裏側もありますけど、そんなお外怖い病になるほど疑うようなことなんてなーんにもない。
わかっていてもどうしようもなくなるとき、ってものがあったんです。
そこで、あえて意識してみる。
人の言葉を額面通りに受け取るのだ、ということを。

ほんとに何も考えないようにすることによって私は人との係わりをまた取り戻した訳ですが、これが意外に苦労する。
いうなればあれです。
空気読め!
ってやつです。
あれが苦手です。
額面通りに受け取った言葉の裏側だから。
空気読めよ! ってやつはそれこそ言葉の裏側です。
それを読まない、読まないんだ読まないんだ読まないんだー!
って自分に言い聞かせておんもに出てきているんで、それができない、というかとても苦手なのです。

気が付かないままスルーっとスルーしているときもあるんでしょうが、たまに気が付いてしまいます。
Σ(;゚ω゚)ハッ!!
ってなんか変換に変な顔文字がでたけどそのまま使います。
出てみると、あ、なんかあの顔文字ちょうどいいかも、と思ったので。
そう、Σ(;゚ω゚)ハッ!! ってなります。
だいたい、空気読めよ! ってのが終わった直後に、あっ、もしかして今のやつ!
って気が付くから手遅れなんですよね。

けれど、読もうとすればきっと”戻って”しまう確信というか、自信というか、そういうのはあるんですよね。
そんなものに自信もってどうする、って話ですけど、自信ある!

そんな私ですが、たまに狂乱します。
たまにどうしょうもなく人の言葉をどうしてうけとっていいかわからなくなってしまうときがあります。
言われたそのときじゃなくて、しばらくたってから、とか一人の時にたまーに。

悪意の言葉ならそれは悪意なので、ただ普通に悔しがって泣くだけなのですが、善意の言葉こそ私はどうしていいかわからなくなるんです。

自分で性質が悪いな、と思うのは、その人が投げかけてくれた言葉の、善なる意味を疑うわけではない、という事。
裏に悪意があるのではないかと疑ってどうこう、って訳ではなく、善意をどうやってうけとめていいのかわからないんです。

たとえば、頼ってね、相談してね、と言葉をかけてもらった時。
そのときは「はい、ありがとうございます」と、思う。
何も疑ってはいないんです。

でも、だいぶあとになってから、その言葉と善意をどうやって消化していいかわからずに夜の帰宅途中とかに歩きながら泣いていたりします。
これは、ほんと、謎。
善意を受け取るのが下手なんでしょうか。
褒められるのが下手な自覚はありますが。(←これに関しては改善の努力が多少実った気がする)

私は、はっきりしていなくてどこまで手を出していいかわからないもの、が苦手な傾向があります。
善意の解釈も、それに類するのかな、と思ったりも。
その善意、どこまで受け止めていいの?
その言葉、どこまで本気にしていいの?
本気にしちゃって、あとから内心で「あちゃー」とか思わない?

ん、最後の一行は、疑いを持っている文章だろうか。

言うなれば、相談してね頼っていいよ、と言われたとして。
それはどこまでいいのかがその言葉だけじゃわからない、ってところがポイントでしょうか。
相談、でいえば、メール相談、電話相談、実際に出会って相談、その内容に関しても浅いものから深いものまでイロイロとあります。
深いものっておおむね面倒です。
相手がどこまでその面倒な深みにのってくれるかわからないのに真に受けるのが怖い、ってところでしょうか。

誰かに対しては私は思います。
あなたにかけてほしい迷惑がある、と。
迷惑は迷惑でも、掛けてもいい迷惑があって、掛けてほしい迷惑があって。

なんだか書きながら迷走してきましたが、自分が思う、を、うまく他人に適用できないということにかんしては、最初に書いた『人の言葉を額面通りに受けとる努力』に似ていると思います。
そういう努力をしないとおんも行けない~、って言いながら、そういう努力がたまに裏目にでて痛いほど埋まりたくなります。

人の善意を額面通りに受け取っている、と自分では認識していながら、どうにもその言葉を消化できずにたまに一人で、しかも夜道なんかでぶつぶつと呟きながら泣いていたりします。

独り歩きしているときに、絶対にそんな人とすれ違いたくないですね、怖い怖い……。

(道民教・情報担当I)


12日の厚生労働省の発表によると、全国で保育所を希望しても入れない待機児童の数が今年4月1日時点で2万2741人となり、1年前より2084人減ったという。
待機児童数の減少は3年連続だが、全体で2万人を超えており、実質1年間で解消できたのは1割ほどという見方もできる。
しかも、保育所の定員は228万8819人とこの1年で4万8641人分増え、過去最高の増加にもかかわらず、である。
報道などでは「潜在的な需要が掘りおこされた」からという分析も散見されるが、共働きでないと家計を維持できない切迫した事情、「子育てを社会全体で」という流れから考えると「潜在的な需要」も含めた見通しをもつことが行政に求められる。

待機児童は、全体の8割が大都市とその周辺に集中している。
年齢別では0~2歳児が82%を占めている。
いわゆる乳児保育のニーズが高まっているのだが、それに対応しきれない行政の実態がある。
たとえば、某大都市では少子化を理由に公立の乳児保育所の整理・統廃合を進めていた。
乳児の保育は一人の保育士で預けられる子どもの数も少ないこともあり、もともと私立で経営することは困難を伴う。
待機児童解消に向けて行政は実績づくりのため、私立保育所に矢継ぎ早に新規開設を促し続けていると聞く。
経営者としても将来の見通しが不透明な中、近隣に競争相手ができるリスクを回避すべく、行政の要請を多少無理してでも受けざるを得ないという本音ももれる。

子ども・子育て支援新制度の本格施行を1年半後に控え、国や各自治体では「子ども・子育て会議」を設置し、保育や子育て支援へのニーズ調査を進めている。
この調査は保育所や子育て支援などの「整備計画」に反映するとても重要なものである。
ただ、肝心なのは調査データから「潜在的な需要」も含めた見通しを「子ども・子育て会議」内で十分に認識できるかということである。
私も某市の「子ども・子育て会議」の一員であるが、一連の議論の中で地域社会全体に「子育てを地域みんなで」という雰囲気を醸成し、ソフト・ハードの両方から「子育てしやすい」まちづくりに一役買えればと思う今日この頃である。

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