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道民教ブログ

道民教のウェブページに付属する教育関係の方々、主に教員の方々の言葉を直接伝えるブログです。ちなみに管理人の羽二重餅は、教員ではありません!

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です!


タイトル通り、6月27日、夏の合研無事終了しました。
拙いながらもシンポジウムの司会をわたくし、羽二重餅がやらせていただいたり。
休憩時間に、一般参加の方に話しかけられて、びっくりしました。
どうもブログを見てくださっていたそうで。
シンポジウムのあいさつのときに、感想をぜひ!
ウェブに掲載OK! にチェックいれてくださったら私が掲載してます!
と言ったので、司会者=羽二重餅とわかったの、だと思う!?
励まされました。ありがとうございます、がんばります!

がんばる!
と言っても、自分がつぶれない程度に、と最近は前置きできるようになったので
たぶん大丈夫なのです。

さて、27日の合研の感想ですが、取りまとめ次第順次アップします!
質疑応答も含めてとてもいい内容だった、まだまだ足りないくらいだった
そう感じています。

合研の後の懇親会でも、これはまだまだやらねばならない!
と盛り上がっていました。
次回に期待!

最後に、もう放送終わってしまったのですが、NHKの取材が
18歳が市民になる?
-18歳選挙権と主権者教育のゆくえ-

という講座に来ていました。
27日当日の夕方6時45分から始まるコーナーの中でちらり、と。
懇親会の時間中でしたが、タブレットを持ってる人がいたので、羽二重餅はみた!!
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 私は中学校の卒業式を知りません。
 中学校には、ほとんど通っていなかったからです。
 卒業式の翌日に、校長室に呼ばれてそこで卒業証書を受け取りました。
 そして私は中学校に通った実績がないのに形式上は卒業扱いとなりました。

 幼稚園の頃からいじめられっこの傾向はありましたが、幼稚園にはいじめられているのを見つけると間に入ってくれるヒーローが居ました。
 小学校の頃はどうしても堪えられなくなっていちにち休むと、雰囲気が変わっていました。あとで友達に聞くと、先生が動いてくれていたそうです。
 中学校のとき、私はやはりいじめられ、不登校になりました。
 そのときに、学校や教職員の隠蔽したがっている雰囲気や、私を、不登校状態になった私に対して面倒くさい腫れ物として扱う雰囲気に出会い、教職員に対して「先生」と呼ぶことに、とてもためらいを覚えるようになりました。

 形式卒業してすぐに、通信制の高校の入学手続きをしました。
 高校だけは何とかでておけ、と言われ続けていました。
そんななかで、登校日は年間30日程度と少なく、事務的な用事以外はまったく話さなくても何とか終えられるだろうと予測の立てられる学校だったので、私にとって都合がよかったのです。
 5年通い、その途中からは学校が楽しくて楽しくてたまらなくなっていました。それでも、中学時代の経験がゆえに、誰かと喋る時に言葉が出てこなくなるなど、人とコミュニケーションをとることに支障をきたすようになっていた当時の私には、救いのようでした。
 そんな学校でも、入学式の日に、ゴスロリやパンクファッション、痛々しいほどのピアスに派手な金髪をトゲトゲにした髪形などの入学生を見て、怖じ気てしまい、それから6年間、通えなくなっていました。

 ある年、ふとあまり抵抗も無く学校に通えていました。
 毎年、手続きをして教科書を全部揃えていざ! というところまで来て通えなくなったり、そもそも手続きの時点で今年はもうだめだ……と休学の手続きをしてしまったりして6年も通わずに居た学校に通えていました。
 それは、私が遠友塾に第18期生として入学した年と同じ年でした。
 行ってみた学校は、あんなに印象的だったゴスロリやパンクファッション、やんキー、不良のような人というのは意外と少なく……おじさん、おばさん、おばあちゃん、小中学校を病気で通えなかった子や、私のような理由の子、経済的に余裕が無くて、学校の無い日はバイトばかりの子など、意外と怖くありませんでした。
 私が不登校になったのは、誰かももう覚えていない、女性の集団からのいじめでした。そういう年頃の子がとても少ないことに、心底ほっとしていました。
 遠友塾も、周囲が年上の方々ばかりで、私にはとても助かりました。
 当時のことを知っている私の遠友塾の同期生の方は、「あの頃は怖い顔をしていて、とても話しかけられる雰囲気じゃなかった」といいます。
 どれほど緊張していたのか、スタッフになってから、私に後ろから話しかけては成らない、という決め事もあったと聞いて、今では笑い話にできます。

 いじめられてる私は自分に自信がありません。いじめられている娘で申し訳ない、という思いで親にも言うことができませんでした。そのうち追い詰められ、自傷行為をするに至り、家族にばれました。
 不登校は私の負い目です。
 その当時、家のご近所の方と会うのが辛かった。どうしても、「こんにちは、いい天気ですね」の後には「最近どう? 何してるの?」という言葉が続くことが多かったからです。
 当時、自転車で出かけてるときに、自分の中学の制服を見ると、バカみたいにかっ飛ばして通り過ぎていました。
 6年間高校に通えなかった頃は、次の年度の手続きをしなければ成らない時期になると、母親に「あんた来年どうすんの!」と、何度も言われるのが何よりも気が重かったです。

 それでもなんとか遠友塾や高校を通いながら、コミュニケーションの訓練をし、不登校への負い目にもいろいろな価値観を知ることで折り合いを付けてきました。
 強がりの部分もありますが、今は昔のことを聞かれたら「いじめられて不登校になって、中学は形式卒業なんですよ~。だから中学校はほとんど通っていないんです」と話せるようになりました。

 でも、時折どうしようもなく気持ちがぐちゃぐちゃに成るときがあります。

 同窓会に出かけた母が、とても楽しそうに帰ってきます。
 何十年も前の中学校の同期、高校時代の同期に久しぶりにあって、お酒を飲みながら何時間でも止まらないおしゃべりをして、家で出迎えた私が「同窓会、どうだった?」と聞くと、「ああ楽しい、楽しかった楽しかった」と言って帰ってきます。
 そして、しばらくすると泣き始めます。
「ごめんね、ごめんね。私すっごく楽しいのに、あんたには同窓会も、同じ年齢の友達も体験させてやれなくて、ごめんね、ごめんね……」
「気にしてないよ。みんなと同じじゃなくても私ちゃんと生きてるもん」
 そう言って慰めながら、楽しい話を聞かせてもらいに来たのに、なぜこうなったのだろうかと、楽しく楽しく帰ってきて、その日の終わり一日すら、私の経歴は母を楽しいままでいさせてやれない。不登校なんてものになってしまった私がいけないんだろうかと、考えます。私が、普通の子だったなら……。

 私が不登校になったために、二年下の妹は、「あ、あの羽二重餅の妹だ」と指差されたりと、苦労もさせたようでした。
 その妹は、中学校を普通に卒業して、普通に高校受験をし、普通に高校に入り、夜間部ですが大学を卒業し、そして就職しました。
 3年間本州で勤め、北海道に帰ってきた妹は、小学校や中学校からの友人、高校時代の同級生や、大学時代に縁があった方々に会うのだと、ちょくちょく出かけていきます。
 私には私の人間関係があり、学生時代の知り合いだけが全てじゃないからいいんだよ、と思う反面、うらやましくなることも、あります。

 私の通っていた高校は、年齢の幅が広く、様々な年代の方々と友達になることで新しい世界が開けることもありました。
それが救いになった反面で、同年代の友人、というものは求められません。
大学になれば普通に年齢がバラけるものだ、その上で友人ができる、としても、私は今、大学の奨学金を自分で背負える自信がありません。
普通に、普通の年頃に高校を卒業して大学に進学していたらおそらく得られたであろう親の支援も、もう望めません。


今でも同じ年齢の女性の集団に囲まれると、パニックに陥ります。
 ふとした瞬間に、私の脳みそはコミュニケーションの方法を全て忘れるようで、数秒ですが困ることがあります。
 完全に引きこもっていたわけではありませんが、不登校、引きこもりと言われた日々は私から気力と体力の上限を削り取りました。
家族以外と言葉を交わさない日々は長く、一日中家に居ることもある、そんな日々は、中学・高校の不登校時代を足して9年。
 不登校を脱出して、高校や遠友塾に通い始めてからも、すっかり体力が落ちていたので一日通うと一日潰れていたりして、一歩も外に出ない日が結構ありました。

 誰かと共に行動し、笑いあうことを取り戻した証のようで、遠友塾の卒業の日はとても特別な日でした。
 そんな特別な三年間を経ても、じっとしていた時期に失った体力や、中学時代にもろくなった精神力が私の行動を制限します。
 普通じゃなくてもいいんだ、普通なだけが全てじゃない、と思いながらも、当たり前のようにみんながやっている、学校に通う、という普通すらできなかった自分、という思いに捕まります。
 気持ちも行ったりきたり。

 遠友塾に入ってからの数年、私がぐんぐん変わる事ができた時期は、いつか普通を越えていける気がしていました。
 今は、足踏みです。

 年はとるし、今度は年齢がために体力は落ちるし、ゆっくりでも良いからやろう、という気持ちとは裏腹にあせるばかりです。


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これ以上先に記述は無い。
どうやら完成されていないようだ。
羽二重餅は第二の修羅場を迎えている!



しました。
避難勧告初体験。

10日の夜から天気が悪くなり、一晩中絶え間ない雷フラッシュによって一睡もならず。
さらに翌日には午前三時から家のどこかからか緊急速報メールの着信音が響き渡り、午前五時にはご近所さんから近所の川の決壊が危ぶまれると電話が来。

11日は寝不足により頭痛立ちくらみ。
運営している(ことになるのか?)学習サークルの面々に、危ないから今週休みね、と連絡をいれてまわり、その午後には川は増しつつも晴れ間が見え……。

警報がすごかった割に私の周囲は特に被害もなく、幸いでした。
ただ、ニュースなどを見ていると各地でまたもやすごい被害があったようですね。
早期の生活の回復を願います。


こんばんは、夏ばて羽二重餅です。
最近いろいろブログに載せる報告事項があったので自分の記事はなかなか書いていませんでした。
なのでけっこうお久しぶりかもしれません。

さて、タイトルの件ですが、本についてです。
私が書店でチラッと見かけただけの本。
まだ読んでませんが、とてもそのタイトルが心に残ってるので。


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まだしっかりとは中身を読んでいないだが、タイトルだけで興味と、そしてすごい反発を覚えた本がある。

『不登校から脱け出す たった1つの方法』

というタイトルの本だ。
小さな書店に立ち寄ったときに見かけたのだが、一人の不登校経験者として興味を覚え、そして強く反発を覚えた。

たったひとつ

不登校から抜け出す方法はたった一つ

そんな事言われたら諦めるしかないだろう。
絶望するしかないだろう。
そんなことがふとよぎったからだ。
ぱらぱらとめくってみた程度でも書いてあることは至極真っ当ではあるのだが、キモチは強く反発している。

自分がそのたった一つに出会えず、失敗している身だからかもしれない。
私は不登校から抜け出すことに失敗した。
私も、私の家族も失敗した。
既に失敗し終わってるから、いまさらって感じで反発したのかも、しれない。

同じく中身を見ていないけれど、タイトルだけでなら

『不登校でも子は育つ』

という本のほうが素直に受け入れられた。
タイトルだけは。
中身は前述したとおり、どちらも結局読んでいないのでなんとも。
いずれ読んでみたい気はしているものの、買わないだろうな、とも思っている。

私はもう失敗済みだから。
なんとなく辛いのだ。

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夏のせいか、あまり考える力がわかないのでこの程度で。
答えを持っているのは自分の心だけ。
でも自分の心は自分に対して正直ではないものです。
では、みなさま、どうぞ夏に負けずお体大切になさって下さい。
猛暑が終わってから扇風機を買った羽二重餅より((´∀`*))
以前に掲載させていただいた

北海道教育科学研究会ブログ 


こちらの記事に関して、あとがきめいたことを書いていたらものすごく増えたのでこちらに別にして一つの記事にすることにしました。
といいつつ、掲載した記事のあとがきめいた部分もかなり多くなったんですが……。

以前に転載させていただいた、奨学金に関する記事を読んでいろんな記憶がよぎりました。
それと、頂いた言葉に対しての返答も含めて。

私は二度、奨学金を考えて、そしてあきらめたことがあります。
一度目は不登校や引きこもりを経て、高校に通っていたその卒業の近くなった頃。
二度目は、その数年後にとある人に「あなたは、あの人の下で学んでみませんか」
と声を掛けていただいたとき。

二度考え、二度諦めました。

私は自分の将来に自信がありません。
一度目に奨学金を借りて学びたい、と思った頃。
不登校と半ば引きこもり状態を経て、二十歳を過ぎてから高校に通っていた時期の終わりごろは、自分の意志で、大学、という選択肢を思ったことがあります。
教育という分野で、今を悩む子どもたちと係わりたい。学校に通えなくても生きていていいんだよ、と伝えていけるようになってみたい。二十歳過ぎたって、学校に通える。0になった人間関係も、作り直せる。そんなことを、ぼうっと思っていました。

私は自分の体験から知っています。
病むと感覚が変わることを。
今は何も感じない地下鉄の、排水のためのほんの些細な、気にしなければ体感することもないような傾斜が、病んでいたころはスキー場のてっぺんで、転げ落ちそうな30度超の坂の上に立っているような、壁に身を寄せるように歩かなければ転げ落ちそうに感じていたころ。
いろんなところから転がり落ちないようにするのに精いっぱいで、私には外に出ていろんなことにかかわるのに力が回せませんでした。

本当に求めている人は自分から情報を集めてあちらからかかわってくる。
そう、思っていた時期もありました。
でも自分が上記の状態になったがために、求められる側の傲慢だとも思いました。
私は自分が奨学金がために死ななくてもいいような情報を欲しがっていました。
ですが、それを自らあちらこちらに電話をし、足を運んで得て、さらに得た結果を取捨選択して選ぶための力はありませんでした。
精一杯、変なところから転がり落ちないために力を使っていたからでもあり、それに力を注ぎすぎて人と係わること、それは人に尋ね、電話をかけて、足を運び情報を求め、という行動をすることが、私にとって坂を転がり落ちて飛び出してしまいかねないほどの重圧でした。

私は受験をしたことがありません。
中学時代はほぼ通して不登校だったこともあり、受験の情報、それに伴い奨学金制度などの情報を、そのころなにも持ちませんでした。
中学三年のころには、受験、奨学金、などという言葉が教室のクラスメイトの中ででも、家庭の中ででも取り交わされるようになったのでしょうが、私は何も知らず、中学も卒業証書こそもらうもののほぼ中学の学習をしていないに等しいので、進学なんてないものだとまるっきり思っていたので求めることもありませんでした。
さきに記したように精神的に参っていたのと、自分が中学に通っていない事から発生したあきらめ。静かな絶望のようなものから、高校に通うという事に対して私は全く諦めていました。
諦めてしまったものに対して自分から能動的に動く人などそうはいないでしょう。

学校から切断された状態で、でも進学したい、と思った場合。
じゃあ学校と関係を密にすれば? と思うかもしれませんが……。
親としてはできるかもしれません。
でも当事者の子の立場として思えば、私は無理だっただろう、と今でも思います。
なんといっても形式卒業になってしまう中学の卒業証書を受け取ったのも、学校と縁を切りたいがためのものでした。

その後数年がたち、週に二日しかない通信制の高校に通えるようになりました。
その卒業が目に見え始めたころが最初の、進学と奨学金を考えたころでした。
最初に、能動的に進学と奨学金を考えたころです。

今手元にお金がなくても、奨学金とかいろいろあるよ!
とも言われましたが、考えて、やめました。
前述しましたが、私は自分の将来に自信がありません。
就職難であることは自分の周囲、両親や妹を見ていれば嫌というほどわかりました。
有利子の物ばかりである現在、卒業した後で返していける自信がなかったんですね。
22で卒業したとして、その後十年以上返し続けている人も知っていましたし、家にいるのが多い分、だいぶ以前から奨学金が、容赦のないただの借金、教育ローンに成り下がってしまっているような状況について知るにはしっていた、というのもありました。
不登校状態の子どもというものは得てしてテストの結果には何の役にも立たない知識ならけっこう蓄えているものです。
自分の将来になんの期待も無い状況のなかで、10年以上にもわたって返済し続けることもある巨大な借金を背負う事は、とても恐ろしいと感じました。
しかも私は高校を卒業した時点で25歳を超えているのです。
返し終えて40歳か、50歳か、それでも返せればいいほうか、という感覚のほうが先にありました。

私は奨学金を借りるのをやめました。
それは、大学に行って学ぶ、という選択肢も一緒になくなりました。
学ぶことを奨励するお金である、というより、長期の借金というほうが重かった。


その後数年たって、とある人に、「あなたは、あの人の下で学んでみないかい?」と言われました。
それが二度目の奨学金を考えたときでした。
私を見込んでそう声を掛けて下さることは、嬉しかったです。
でも、すぐに脳裏には奨学金、という言葉がよぎりました。
返していけないなぁ、という事に関しては昔さんざん考えたのです。
不登校せず、ひきこもりせず、ストレートで大学に進んでいれば親の援助も頼れたでしょう。
でも今はもう当てにできません。
不景気は両親の収入も歴然と落としました。
私は「奨学金を返していける気がまったくしないので、お誘いは嬉しいのですが残念ですが」
と断りました。

『学びたい』と思った事がありました。
漠然とした学歴の為ではなく、大学に進むことで何がしたいのかも思ったうえで学びたいと、思ったことがありました。
でも『奨学金の現実』と『不登校や引きこもり支援につなげたい』というそんなに稼げる当てのない(つまり返して行ける当ての無い)だろう学んだ結果とを思って、やめました。
数百万の借金をする学びというのは、数百万のそれを返せるだけの稼ぎのある仕事につながる、とならなければとても自分の主義趣向だけで進める道じゃありませんでした。

さらに全体を通して、私がもし奨学金を選んだとした場合。
学校からの継続がない私に選べるのは貸与型、つまり返済の必要なタイプの物でした。
不登校、社会的に引きこもりと経て事項評価を落としている人間にとって
数百万の十数年掛って返す借金を持つことになる、という前提があると。

もそれでもがんばる<<<返せる当てを見据えられない借金怖い

ということになるのは至極当たり前のことかな、という気もします。




それが、私にとっての『奨学金の立ち位置』です。



現在寝そびれた午前三時。
深夜に書き始めるといい事ないんですよねー、と分かっているのですが午前三時になります。
いろいろ書きそびれた気もするけど(逆にいらんことを書きすぎている気もするけど)現在これまで。
皆様おやすみなさいませ。
どうぞお健やかにお過ごしください。


3月4日追記
中学三年時点、そして高校3年時点においては教師も学校も、進学させよう進学させようとさまざま努力しているだろう。
通信の高校に通っていた時代に、そこでお世話になった先生方の昔の話しなんかを聞く機会もけっこうあったが、みな就職か進学か、とにかく進ませるために奔走していた。
本人がまだ迷っていたり仕組みや制度があることをよく知らなくてもその時点においては教師の奔走によって(学校によっては進学率、就職率の数字を上げよと尻を叩かれているのかもしれないが)半ば強制的にでも成らされるもの、という認識がある。
対して、一度学校を離れてしまうと、非常にその情報は少ないように感じる。
学校というのは場所柄的にもそういう情報が集まってくる、集めやすい場所であろうが、そこを離れてしまうと個人の努力でしか見つけられなくなる。
とても散発的で、探しているものの姿も良く見えないのではないか。

そして思うに、中学三年、高校三年、というストレートにその節目にいるときより、いったん道を外れてどうしようかと考えあぐねて、それでもやっぱり学びたい。
そう思った時のほうが学ぶことに対する意識・意欲が強いのではないかと。
更にいうと漫然とした進学ではなく目的意識を持っているかもしれない。

そういう時にこそ奨学金に助けてほしいと思う。
出来るなら給付型、そこが無理でも無利子の貸与。
一回外の世界に出ちゃったからこそ知ってしまった、卒業後に抱える数百万の借金、というものに怯えてあきらめなくてもいいように。

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