道民教ブログ
道民教のウェブページに付属する教育関係の方々、主に教員の方々の言葉を直接伝えるブログです。ちなみに管理人の羽二重餅は、教員ではありません!
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
人の言葉の裏側を、どうしても探ってしまって外に出れなくなった私が外で活動していくために行ったことは、できうる限り人の言葉を額面通りに受け取ること、でした。
自分でしゃべっててわかるんですけど、言葉にはべつにそんなに裏側なんてないんです。
たまには裏側もありますけど、そんなお外怖い病になるほど疑うようなことなんてなーんにもない。
わかっていてもどうしようもなくなるとき、ってものがあったんです。
そこで、あえて意識してみる。
人の言葉を額面通りに受け取るのだ、ということを。
ほんとに何も考えないようにすることによって私は人との係わりをまた取り戻した訳ですが、これが意外に苦労する。
いうなればあれです。
空気読め!
ってやつです。
あれが苦手です。
額面通りに受け取った言葉の裏側だから。
空気読めよ! ってやつはそれこそ言葉の裏側です。
それを読まない、読まないんだ読まないんだ読まないんだー!
って自分に言い聞かせておんもに出てきているんで、それができない、というかとても苦手なのです。
気が付かないままスルーっとスルーしているときもあるんでしょうが、たまに気が付いてしまいます。
Σ(;゚ω゚)ハッ!!
ってなんか変換に変な顔文字がでたけどそのまま使います。
出てみると、あ、なんかあの顔文字ちょうどいいかも、と思ったので。
そう、Σ(;゚ω゚)ハッ!! ってなります。
だいたい、空気読めよ! ってのが終わった直後に、あっ、もしかして今のやつ!
って気が付くから手遅れなんですよね。
けれど、読もうとすればきっと”戻って”しまう確信というか、自信というか、そういうのはあるんですよね。
そんなものに自信もってどうする、って話ですけど、自信ある!
そんな私ですが、たまに狂乱します。
たまにどうしょうもなく人の言葉をどうしてうけとっていいかわからなくなってしまうときがあります。
言われたそのときじゃなくて、しばらくたってから、とか一人の時にたまーに。
悪意の言葉ならそれは悪意なので、ただ普通に悔しがって泣くだけなのですが、善意の言葉こそ私はどうしていいかわからなくなるんです。
自分で性質が悪いな、と思うのは、その人が投げかけてくれた言葉の、善なる意味を疑うわけではない、という事。
裏に悪意があるのではないかと疑ってどうこう、って訳ではなく、善意をどうやってうけとめていいのかわからないんです。
たとえば、頼ってね、相談してね、と言葉をかけてもらった時。
そのときは「はい、ありがとうございます」と、思う。
何も疑ってはいないんです。
でも、だいぶあとになってから、その言葉と善意をどうやって消化していいかわからずに夜の帰宅途中とかに歩きながら泣いていたりします。
これは、ほんと、謎。
善意を受け取るのが下手なんでしょうか。
褒められるのが下手な自覚はありますが。(←これに関しては改善の努力が多少実った気がする)
私は、はっきりしていなくてどこまで手を出していいかわからないもの、が苦手な傾向があります。
善意の解釈も、それに類するのかな、と思ったりも。
その善意、どこまで受け止めていいの?
その言葉、どこまで本気にしていいの?
本気にしちゃって、あとから内心で「あちゃー」とか思わない?
ん、最後の一行は、疑いを持っている文章だろうか。
言うなれば、相談してね頼っていいよ、と言われたとして。
それはどこまでいいのかがその言葉だけじゃわからない、ってところがポイントでしょうか。
相談、でいえば、メール相談、電話相談、実際に出会って相談、その内容に関しても浅いものから深いものまでイロイロとあります。
深いものっておおむね面倒です。
相手がどこまでその面倒な深みにのってくれるかわからないのに真に受けるのが怖い、ってところでしょうか。
誰かに対しては私は思います。
あなたにかけてほしい迷惑がある、と。
迷惑は迷惑でも、掛けてもいい迷惑があって、掛けてほしい迷惑があって。
なんだか書きながら迷走してきましたが、自分が思う、を、うまく他人に適用できないということにかんしては、最初に書いた『人の言葉を額面通りに受けとる努力』に似ていると思います。
そういう努力をしないとおんも行けない~、って言いながら、そういう努力がたまに裏目にでて痛いほど埋まりたくなります。
人の善意を額面通りに受け取っている、と自分では認識していながら、どうにもその言葉を消化できずにたまに一人で、しかも夜道なんかでぶつぶつと呟きながら泣いていたりします。
独り歩きしているときに、絶対にそんな人とすれ違いたくないですね、怖い怖い……。
自分でしゃべっててわかるんですけど、言葉にはべつにそんなに裏側なんてないんです。
たまには裏側もありますけど、そんなお外怖い病になるほど疑うようなことなんてなーんにもない。
わかっていてもどうしようもなくなるとき、ってものがあったんです。
そこで、あえて意識してみる。
人の言葉を額面通りに受け取るのだ、ということを。
ほんとに何も考えないようにすることによって私は人との係わりをまた取り戻した訳ですが、これが意外に苦労する。
いうなればあれです。
空気読め!
ってやつです。
あれが苦手です。
額面通りに受け取った言葉の裏側だから。
空気読めよ! ってやつはそれこそ言葉の裏側です。
それを読まない、読まないんだ読まないんだ読まないんだー!
って自分に言い聞かせておんもに出てきているんで、それができない、というかとても苦手なのです。
気が付かないままスルーっとスルーしているときもあるんでしょうが、たまに気が付いてしまいます。
Σ(;゚ω゚)ハッ!!
ってなんか変換に変な顔文字がでたけどそのまま使います。
出てみると、あ、なんかあの顔文字ちょうどいいかも、と思ったので。
そう、Σ(;゚ω゚)ハッ!! ってなります。
だいたい、空気読めよ! ってのが終わった直後に、あっ、もしかして今のやつ!
って気が付くから手遅れなんですよね。
けれど、読もうとすればきっと”戻って”しまう確信というか、自信というか、そういうのはあるんですよね。
そんなものに自信もってどうする、って話ですけど、自信ある!
そんな私ですが、たまに狂乱します。
たまにどうしょうもなく人の言葉をどうしてうけとっていいかわからなくなってしまうときがあります。
言われたそのときじゃなくて、しばらくたってから、とか一人の時にたまーに。
悪意の言葉ならそれは悪意なので、ただ普通に悔しがって泣くだけなのですが、善意の言葉こそ私はどうしていいかわからなくなるんです。
自分で性質が悪いな、と思うのは、その人が投げかけてくれた言葉の、善なる意味を疑うわけではない、という事。
裏に悪意があるのではないかと疑ってどうこう、って訳ではなく、善意をどうやってうけとめていいのかわからないんです。
たとえば、頼ってね、相談してね、と言葉をかけてもらった時。
そのときは「はい、ありがとうございます」と、思う。
何も疑ってはいないんです。
でも、だいぶあとになってから、その言葉と善意をどうやって消化していいかわからずに夜の帰宅途中とかに歩きながら泣いていたりします。
これは、ほんと、謎。
善意を受け取るのが下手なんでしょうか。
褒められるのが下手な自覚はありますが。(←これに関しては改善の努力が多少実った気がする)
私は、はっきりしていなくてどこまで手を出していいかわからないもの、が苦手な傾向があります。
善意の解釈も、それに類するのかな、と思ったりも。
その善意、どこまで受け止めていいの?
その言葉、どこまで本気にしていいの?
本気にしちゃって、あとから内心で「あちゃー」とか思わない?
ん、最後の一行は、疑いを持っている文章だろうか。
言うなれば、相談してね頼っていいよ、と言われたとして。
それはどこまでいいのかがその言葉だけじゃわからない、ってところがポイントでしょうか。
相談、でいえば、メール相談、電話相談、実際に出会って相談、その内容に関しても浅いものから深いものまでイロイロとあります。
深いものっておおむね面倒です。
相手がどこまでその面倒な深みにのってくれるかわからないのに真に受けるのが怖い、ってところでしょうか。
誰かに対しては私は思います。
あなたにかけてほしい迷惑がある、と。
迷惑は迷惑でも、掛けてもいい迷惑があって、掛けてほしい迷惑があって。
なんだか書きながら迷走してきましたが、自分が思う、を、うまく他人に適用できないということにかんしては、最初に書いた『人の言葉を額面通りに受けとる努力』に似ていると思います。
そういう努力をしないとおんも行けない~、って言いながら、そういう努力がたまに裏目にでて痛いほど埋まりたくなります。
人の善意を額面通りに受け取っている、と自分では認識していながら、どうにもその言葉を消化できずにたまに一人で、しかも夜道なんかでぶつぶつと呟きながら泣いていたりします。
独り歩きしているときに、絶対にそんな人とすれ違いたくないですね、怖い怖い……。
PR
プロフィール
HN:
管理人:羽二重餅
性別:
非公開
最新記事
(12/18)
(05/29)
(05/14)
(04/16)
(12/30)