道民教ブログ
道民教のウェブページに付属する教育関係の方々、主に教員の方々の言葉を直接伝えるブログです。ちなみに管理人の羽二重餅は、教員ではありません!
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この記事を書く直前に、頂いたコメントに返信を書いたのですが、どうにもそれはブログ記事本文か!
って自己ツッコミしたくなるほどなんか書きすぎてしまった気がします。
という余談は脇において。
前置き終了ー!
*****************************************
現役の教師の方に、私は
「どうかできるだけ、できるだけ不登校の子供を出さないで」
と泣いてねがっていた。
そんな私は不登校である。
後悔は、していたりしていなかったり。
不登校になってみてびっくりしたのは、学校に通うってこと以外何も考えていなかったという事だった。
何の疑問もなく小学校に入学し、卒業したら中学校に入るのが当たり前で、当たり前にそれを卒業したらきっと在学中に受験戦争とかいうのを適当にこなして、本当は近くのあの高校に入りたいな、とか言っていたけど学力がそんなにある気がしないから適当にランクとか下げてどこかの高校入って、当たり前に卒業してそこで就職かもしくは大学とか通ってから就職するんだろうなぁ。
という、その学校ありきのルート以外、私自身も、そして両親も、なーんにも考えていなかった。
当たり前、と恐ろしく当たり前にそんなもんだと思っていた。
不良、とか非行、とかいうものとも縁がない、小学校の通信簿に片付けをもうちょっと頑張りましょう、と書かれるくらいしかないような“イイコ”だった、というのもあって、その当たり前を外れたときのショックと混乱は、半端ない。
生き方すらわからなくなるほどだ。
私も私の家族もひっちゃかめっちゃかになった。
私も当たり前だと思っていた。
家族も当たり前だと思っていた。
ということは、世間も当たり前だと思っている。
“なんであなたは、誰もが普通にやっている当たり前のことが出来ないの!?”
という思いを、私は常に感じているように思う。
そういうのを感じて、委縮してしまう子が一人でも減るように。
私は、現役の教師をしている方にねがったのだ。
でも、不登校を否定するわけではない。
不登校になったあとを、誰も自分や我が子の未来として想像していない事が問題なのだとおもう。
不登校になってしまったら、という表現はまだまだある。
なってしまったら なんて、なんて否定的な表現なのだろう。
まるで悪いことのようではないか。
自分の命を守るために、自分の精神を守るために学校に通う事をやめた子どもたちが、どうしてその自分の命や精神を脅かす場所を離れても安心することが出来ないのだろうか。
私は今、周囲に対していう事が出来る。
「私は、中学時代に不登校になってそれから十年くらい、全く学校に通えませんでした。社会的にひきこもり状態でしたね」
と、ごく普通の会話に織り交ぜて、問われ、答え、それができる。
でもやっぱり、ずっと思っている。
不登校になってしまった私は、悪い子なんだ、と。
人の当り前ができない、出来そこないなんだ、と。
思ってしまって、抜けられない。
って自己ツッコミしたくなるほどなんか書きすぎてしまった気がします。
という余談は脇において。
前置き終了ー!
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現役の教師の方に、私は
「どうかできるだけ、できるだけ不登校の子供を出さないで」
と泣いてねがっていた。
そんな私は不登校である。
後悔は、していたりしていなかったり。
不登校になってみてびっくりしたのは、学校に通うってこと以外何も考えていなかったという事だった。
何の疑問もなく小学校に入学し、卒業したら中学校に入るのが当たり前で、当たり前にそれを卒業したらきっと在学中に受験戦争とかいうのを適当にこなして、本当は近くのあの高校に入りたいな、とか言っていたけど学力がそんなにある気がしないから適当にランクとか下げてどこかの高校入って、当たり前に卒業してそこで就職かもしくは大学とか通ってから就職するんだろうなぁ。
という、その学校ありきのルート以外、私自身も、そして両親も、なーんにも考えていなかった。
当たり前、と恐ろしく当たり前にそんなもんだと思っていた。
不良、とか非行、とかいうものとも縁がない、小学校の通信簿に片付けをもうちょっと頑張りましょう、と書かれるくらいしかないような“イイコ”だった、というのもあって、その当たり前を外れたときのショックと混乱は、半端ない。
生き方すらわからなくなるほどだ。
私も私の家族もひっちゃかめっちゃかになった。
私も当たり前だと思っていた。
家族も当たり前だと思っていた。
ということは、世間も当たり前だと思っている。
“なんであなたは、誰もが普通にやっている当たり前のことが出来ないの!?”
という思いを、私は常に感じているように思う。
そういうのを感じて、委縮してしまう子が一人でも減るように。
私は、現役の教師をしている方にねがったのだ。
でも、不登校を否定するわけではない。
不登校になったあとを、誰も自分や我が子の未来として想像していない事が問題なのだとおもう。
不登校になってしまったら、という表現はまだまだある。
なってしまったら なんて、なんて否定的な表現なのだろう。
まるで悪いことのようではないか。
自分の命を守るために、自分の精神を守るために学校に通う事をやめた子どもたちが、どうしてその自分の命や精神を脅かす場所を離れても安心することが出来ないのだろうか。
私は今、周囲に対していう事が出来る。
「私は、中学時代に不登校になってそれから十年くらい、全く学校に通えませんでした。社会的にひきこもり状態でしたね」
と、ごく普通の会話に織り交ぜて、問われ、答え、それができる。
でもやっぱり、ずっと思っている。
不登校になってしまった私は、悪い子なんだ、と。
人の当り前ができない、出来そこないなんだ、と。
思ってしまって、抜けられない。
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