道民教ブログ
道民教のウェブページに付属する教育関係の方々、主に教員の方々の言葉を直接伝えるブログです。ちなみに管理人の羽二重餅は、教員ではありません!
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こんにちは、羽二重餅です。
ここ最近ずっと天気が悪いですね。
家族でちょっと遠方までお墓参りに行く予定があったのですが、あまりの天気の悪さに中止になりました。
朝からざんざん降りなら行く気もなくなります。
往復一日がかりの距離の場所なら、よほどのことがない限りやはり天気のいい日に行きたい!
そんなものです。
最近とある人に、『今の羽二重餅さんの課題はきっと、過去の開示だ』と言われたことがあります。
つらい時期、っていうのは人皆それぞれにあるわけですが、私はそのころのことを話すにしても、もう別段話すのも嫌だ、っていう時期ではなくなったと思っています。
話すのは別にかまわないけど、勝手に心臓が大暴れするのと涙が出てくるのはもうコントロール外ですが(笑)
話すのは別にかまわないんですが、でも私は基本的に話しません。
不幸な話ってみんな嫌いですよね。
人の不幸は蜜の味、という言葉もありますが……。
そういう人たちも、自分たちの蜜にできない不幸話はきらいなんだと思います。
不幸な話、をしていると「それはあなたがあーでこーでそーだからじゃないの?」みたいに話をかぶせてくる方って、結構いるんですよね。
年齢的には中学生だったころにちょっと事故にあって入院したとき、同室の方々から、学校はどうしたの?
と聞かれました。
あのころはまだ学校に通っていないことに対する認知は今より低かったんじゃないかな?と。
さらに言うと私自身もそれがコンプレックスな時代でした。負い目になっていたころです。
成人はしていたでしょう。でも年若い感じのお姉さんと、おばさんと、あとはお年を召したお婆ちゃんの三人が同室でした。
いい人たちだったと思います。
学校はどうしたの? と聞かれて。
私は、迷いながらも嘘がつけなくて、イジメで不登校だという事を話しました。
彼女たちは私に聞きます。
「どうしたの? どういうことがあったの? 話して御覧」と。
いい人たちでした。
やさしい人たちでした。
ほんの短期間の入院仲間ですが、促されて話してしまうくらいには好意を持っていたと思います。
促されて話し始めたのに、物の数分で「それはあなたがあーでこーでそーだからじゃないの?」と、彼女たちは私に対していじめられる理由を見つけ出しました。
子どもが子どもをいじめる理由として十分なものはあったでしょう。
太っていました。イジメがあったことにも起因するでしょうが恐らく陰気だったでしょう。
さらにそのころは、人に対してどう話しかけていいかわからなくなっていて、大好きな友人に対しても言葉が詰まってしまう日々でした。
そうじゃなくて、そうじゃなくて!
と、私の目には涙が浮かび、そして口をつぐみました。
あきらめました。
やはり話にしてはいけないことだったんだ、と思いました。
私は、私自身に関して以外も、やはり不登校にならざるを得ないというのは不幸な話だと思います。
私自身が不登校になった時には、世間の風や、家族への負い目や、いろんなものが、学校を休んでいてすら私を追い詰めていました。言葉は広まったけど、今でもわが子が不登校になればショックを受けない親のほうが少数派では? と思いますし。
学校には通いたくなかったけど、最初から通いたくなかったわけじゃなくて、やはり世間一般のレールで、レールを踏んでないといろいろ大変で。
だからこそ『○○な人の復帰ストーリー』みたいな話もいっぱいあるんだろうな、と思うんです。
不登校になって本当に幸せだ! なんていう人、居ないとは言えないだろうけど、本当に少数派だと思うのです。
小さい時からずっと、学校に通うふつうを仕込まれているんです。ふつうにすらなれないショック。
話をしたことに対して、私を見て私じゃない誰かの側に立って
「それはあなたがあーでこーでそーだからじゃないの?」
と指摘する行為というのはさぞかし気持ちのいいものなのでしょう。
けっこういますから、そういう人。
でも、そんな理由があったって、それは『だからいじめてもいい』免罪符にはならないと思うんです。
思うけど、そういう方々は『だからイジメられたんでしょ』に持っていこうとする。
ぶっちゃけていじめられた理由なんて、あーだこーだと言いたい方々の言う事程度、少なからず知っています。
でも、『え、だからいじめられたことに対して同意して、納得しちゃうの?』っていう感覚。
私は繰り返すうちに、自分が話をしていて泣いてしまうような、同情を乞うような話はしちゃいけないんだ、と学びました。
不幸な話はみんな嫌い、とそういうふうに。
不幸な話って聞いてて重いから、そうやって話を切り上げちゃうのかなぁ。と。
自分から促しといてそれは失礼だと思いますが。
不幸な話に対して、『こうでこうでこうだったんでしょ、だからこうで、ほら解決』もう話は終わったよね、というのが一つ、不幸な話はみんな嫌い、ということ。
もう一つはその人にとってそういう行動に出られる話題、出られる相手が居るというのはさぞかし甘い蜜なのだろう、と。
私は甘い甘い不幸な蜜になることをやめました。
そうしたら今度は、自分が自分でも「これって結構グロイしドン引きだよねぇ」っていう内容に関してまで、話をしてほしい、聞かせてほしい、と真剣に言ってくださる方にまで、気が付いたら話せなくなっていました。
話しちゃいけない、と思っていても、基本的には話したいんです。
聞き上手な人が人気なのは、みんな話をしたいから、自分の話を聞いてほしいから、ですよね。
私も、話したい欲求はある。でも、話せない。
匿名世界でなら何とかなるかな、と思ってブログやってみたりツイッターやってみたりしたんですが話せない。
すっかり立派で頑丈な堰が出来上がってしまっていたことに気が付いたのは、最近の事です。
ここ最近ずっと天気が悪いですね。
家族でちょっと遠方までお墓参りに行く予定があったのですが、あまりの天気の悪さに中止になりました。
朝からざんざん降りなら行く気もなくなります。
往復一日がかりの距離の場所なら、よほどのことがない限りやはり天気のいい日に行きたい!
そんなものです。
最近とある人に、『今の羽二重餅さんの課題はきっと、過去の開示だ』と言われたことがあります。
つらい時期、っていうのは人皆それぞれにあるわけですが、私はそのころのことを話すにしても、もう別段話すのも嫌だ、っていう時期ではなくなったと思っています。
話すのは別にかまわないけど、勝手に心臓が大暴れするのと涙が出てくるのはもうコントロール外ですが(笑)
話すのは別にかまわないんですが、でも私は基本的に話しません。
不幸な話ってみんな嫌いですよね。
人の不幸は蜜の味、という言葉もありますが……。
そういう人たちも、自分たちの蜜にできない不幸話はきらいなんだと思います。
不幸な話、をしていると「それはあなたがあーでこーでそーだからじゃないの?」みたいに話をかぶせてくる方って、結構いるんですよね。
年齢的には中学生だったころにちょっと事故にあって入院したとき、同室の方々から、学校はどうしたの?
と聞かれました。
あのころはまだ学校に通っていないことに対する認知は今より低かったんじゃないかな?と。
さらに言うと私自身もそれがコンプレックスな時代でした。負い目になっていたころです。
成人はしていたでしょう。でも年若い感じのお姉さんと、おばさんと、あとはお年を召したお婆ちゃんの三人が同室でした。
いい人たちだったと思います。
学校はどうしたの? と聞かれて。
私は、迷いながらも嘘がつけなくて、イジメで不登校だという事を話しました。
彼女たちは私に聞きます。
「どうしたの? どういうことがあったの? 話して御覧」と。
いい人たちでした。
やさしい人たちでした。
ほんの短期間の入院仲間ですが、促されて話してしまうくらいには好意を持っていたと思います。
促されて話し始めたのに、物の数分で「それはあなたがあーでこーでそーだからじゃないの?」と、彼女たちは私に対していじめられる理由を見つけ出しました。
子どもが子どもをいじめる理由として十分なものはあったでしょう。
太っていました。イジメがあったことにも起因するでしょうが恐らく陰気だったでしょう。
さらにそのころは、人に対してどう話しかけていいかわからなくなっていて、大好きな友人に対しても言葉が詰まってしまう日々でした。
そうじゃなくて、そうじゃなくて!
と、私の目には涙が浮かび、そして口をつぐみました。
あきらめました。
やはり話にしてはいけないことだったんだ、と思いました。
私は、私自身に関して以外も、やはり不登校にならざるを得ないというのは不幸な話だと思います。
私自身が不登校になった時には、世間の風や、家族への負い目や、いろんなものが、学校を休んでいてすら私を追い詰めていました。言葉は広まったけど、今でもわが子が不登校になればショックを受けない親のほうが少数派では? と思いますし。
学校には通いたくなかったけど、最初から通いたくなかったわけじゃなくて、やはり世間一般のレールで、レールを踏んでないといろいろ大変で。
だからこそ『○○な人の復帰ストーリー』みたいな話もいっぱいあるんだろうな、と思うんです。
不登校になって本当に幸せだ! なんていう人、居ないとは言えないだろうけど、本当に少数派だと思うのです。
小さい時からずっと、学校に通うふつうを仕込まれているんです。ふつうにすらなれないショック。
話をしたことに対して、私を見て私じゃない誰かの側に立って
「それはあなたがあーでこーでそーだからじゃないの?」
と指摘する行為というのはさぞかし気持ちのいいものなのでしょう。
けっこういますから、そういう人。
でも、そんな理由があったって、それは『だからいじめてもいい』免罪符にはならないと思うんです。
思うけど、そういう方々は『だからイジメられたんでしょ』に持っていこうとする。
ぶっちゃけていじめられた理由なんて、あーだこーだと言いたい方々の言う事程度、少なからず知っています。
でも、『え、だからいじめられたことに対して同意して、納得しちゃうの?』っていう感覚。
私は繰り返すうちに、自分が話をしていて泣いてしまうような、同情を乞うような話はしちゃいけないんだ、と学びました。
不幸な話はみんな嫌い、とそういうふうに。
不幸な話って聞いてて重いから、そうやって話を切り上げちゃうのかなぁ。と。
自分から促しといてそれは失礼だと思いますが。
不幸な話に対して、『こうでこうでこうだったんでしょ、だからこうで、ほら解決』もう話は終わったよね、というのが一つ、不幸な話はみんな嫌い、ということ。
もう一つはその人にとってそういう行動に出られる話題、出られる相手が居るというのはさぞかし甘い蜜なのだろう、と。
私は甘い甘い不幸な蜜になることをやめました。
そうしたら今度は、自分が自分でも「これって結構グロイしドン引きだよねぇ」っていう内容に関してまで、話をしてほしい、聞かせてほしい、と真剣に言ってくださる方にまで、気が付いたら話せなくなっていました。
話しちゃいけない、と思っていても、基本的には話したいんです。
聞き上手な人が人気なのは、みんな話をしたいから、自分の話を聞いてほしいから、ですよね。
私も、話したい欲求はある。でも、話せない。
匿名世界でなら何とかなるかな、と思ってブログやってみたりツイッターやってみたりしたんですが話せない。
すっかり立派で頑丈な堰が出来上がってしまっていたことに気が付いたのは、最近の事です。
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